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 島津家は、今から約八百年前、惟宗忠久(?~1227)が源頼朝より、島津荘の下司職・地頭職に任命され、島津姓を名乗ったことに始まるといわれています。 それ以降、九州南部の薩摩・大隅・日向を中心に中世から近世・幕末まで一貫して有力大名としての地位は揺るぎませんでした。
 この八百年にも及ぶ大名家に代々伝わった文書類は、日本の中世から近代にかけての歴史を研究する場合、欠かすことの出来ない重要な資料群として、つとに有名であります。
 現在これらの文書は、四ヶ所に分散して所蔵されています。
 東京の袖が崎島津家(島津本家)のものは、東京大学史料編纂所と鹿児島市磯の尚古集成館に、鹿児島の玉里島津家のものは、鹿児島大学附属図書館と鹿児島県立歴史資料センター黎明館に、それぞれ所蔵寄託されています。
 鹿児島大学附属図書館に所蔵されている玉里文庫は、昭和二十六年(1951)玉里島津家より購入したもので、和書及び漢籍・文書など一万八千九百余冊にのぼる大量の貴重書です。
 玉里島津家は、薩摩二十八代藩主島津斉彬(1809~1858)の弟島津久光(1817~1887)に始まります。
 島津斉彬が安政五年(1858)に突然亡くなり、藩主は久光の長子忠義が継ぐことになります。 そのため久光は「国父」として忠義の後見役となり、幕末から明治にかけて実質的な島津藩の代表として重要な政治的立場にありました。
 島津久光は大変な学問好きであり、歴史学者として「六国史」の後を継ぎ、自ら仁和4年(888)から応永19年(1412)にかけての歴史書「通俗国史」八十六冊を著しました。 また、臣下の重野安繹・小牧昌業に命じ「皇朝世鑑」四十一冊を編纂させ、市来四郎に「旧記秘論」、「島津家国事鞅掌史料」等を集録させました。
 そうした歴史編纂に利用することを考えて、和漢の歴史資料を集中的に収集したらしく、玉里文庫においては、島津家伝来の古文書群のほか、史部は特に充実しています。
 玉里文庫は、4つに分散した島津家文書のなかで、唯一書籍が中心になったもので、近世薩摩の学術の全体像をうかがうことができます。

(法文学部教授 高津 孝)

 

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